長らくごぶさたいたしました。
あの日から、今日で5か月―季節は移ろい、暑い夏となりました。
あれから、事態が大きく動いたことも、あまり動いていないことも、
そして、すこし希望がみえたことも、まったくみえてこないことも……。
「何も終わっていないし、何も始まっていない」……そうつぶやいた
方がいました。
いまだ避難されている方や、さまざま失った方とお話していると、
あらゆる思いを封じ込めて明るい笑顔を見せてくださる方も
おられれば、悲痛を言葉にしてぶつけてくださる方もおられますが、
言葉にさえせずに、あるいはできずに、ひっそりとされている方も
多くおられることを感じます。
生きていく、ということは、そもそもほんとうに大変なことです……が、
この3月に起きたこと、そして原発の問題を含め今なお続いていることに
苦しめられている方々に、どうしたらもっと寄りそえるか、それを
考えない日はありません。
そしてなぜこれほどにも深刻な事態に陥ることになってしまったのか、
それも考えずにはいられません。
ずっと、より大切にすべきことがあったのに、それこそ大きなうねりに
飲みこまれ、小さな声はかき消されてきた―震災対策であれ、原発問題
であれ、調べれば調べるほど、同じことが根本に問題にあったように
感じられます。
一つしいて言うなれば、「こういうことが豊かさというものだ」という
価値観が、日本全体でもうすこし変わってもいいのではないか……
ということ、ひいては、止めるべきものと気づいたものを止めたり、
昔のように戻したりすることも、いまこそ必要な‘前進’なのでは
ないか……ということを感じています。
先日、「発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。
それは、人類をやめろ、というのと同じ」と、いささか乱暴な言説を
表明した作家がいましたが、それはだいぶ破綻した論理で、
これまでもそうであったように、科学により獲得した新たなる技術であれ、
それがよろしくないと判断されたときには、人間の知性や理性によって
放棄されたり、よりよい他の技術に置き換えられたりしていかなければ
ならないのではないでしょうか。
せめてそうでなければ、人間として、あまりにも驕った態度だと思うのです。
人間は、40億年前にこの地球上にあらわれた生命から進化してきている
とのこと。さまざまな生物が、進化し、戦ったり助け合ったり、食べ物を
供給し合い、豊かな自然をすみかとして、40億年もの間、生きてきた―
つまりは、一人の人間が100年生きたとしても、その4000万倍の間、
ずっと続いてきた地球の生命活動が、いま脅かされつつあるという事実……。
生命科学者、柳澤桂子さんによる一首が心に響く、2011年の夏です。
「生きるという 悲しいことを 我はする 草木も虫も 鳥もするなり」