2014年12月1日月曜日

「Happy TocoとMerry Merry Christmas!」

いよいよ12月となりましたね。
昨日からアドベントに入り、街もクリスマスにむけて華やいできました。

私どもHappy Tocoメンバーは3人とも、とくに特定の宗教には属していませんが、クリスマスには、音楽にも美術にもほんとうに心あたたまる作品が多いことに、つねづね感じ入るものがありました。

さまざま文献を読み込んでみますと、クリスマスには、宗教をこえて、平和を願い、優しい時間を築いてきた歴史があることがよくわかります。
そのような精神を根底に引き継ぎながら、クリスマスを楽しみにする気持ちを大切にしたいと思い、またみなさんとあたたかな時間をご一緒したいという思いから、今年は『Happy TocoとMerry Merry Christmas』という催しをすることにいたしました♪


12月16日(火)から21日(日)までの6日間、タティングレースはじめ、さまざまクリスマスをモチーフにした手芸作品を展示したギャラリー内で、毎日1つの音楽会とおはなし会を開催します。初日から順に各日の内容をご紹介しましょう。

♪16日 「イギリスのクリスマス」おはなし会 & 「しずかな しずかな しずかな クリスマス」コンサート
13時から、イギリスをはじめヨーロッパ各国を歴訪され、作品が掲載されたご本もたくさんおありのタティングレース作家・広瀬史子さんが、「イギリスのクリスマス」と題しておはなしくださいます。イギリスのクリスマスディナーの様子などもご紹介くださるとのことです。
会期中、広瀬史子さんの作品をご覧いただけるコーナーもございます。息をのむほどに美しい作品です。
17時からは、「もみの木」「牧人ひつじを」「ひいらぎ飾ろう」など演奏します。


♪17日 ミニミニランチコンサート & 「クリスマスのジャズ」おはなし会
12時から、ミニミニランチをお出しし、コンサートをします。
この日のおはなし会と繋がるよう、「The Christmas Song」「Have yourself A Merry Little Christmas」などクリスマスのスタンダード・ジャズナンバーを演奏します。

16時から、「クリスマスとジャズ」と題し、光裕&聡子がクリスマスにまつわるジャズナンバーのエピソードなどをおはなしします。


♪18日 トリオコンサート & 「ドイツのクリスマス」おはなし会
13時から、岸川くんのパーカッションとともにトリオコンサートをします。
「白い恋人たち」「白銀は招くよ」「ノルウェーの森」など演奏します。
16時からは、ドイツ文学研究者のエルンスト・フリードリヒ・ゾンダーマンさんが、「ドイツのクリスマス」と題して母国のクリスマスについておはなしくださいます。


♪19日 ティーパーティコンサート & 「フィンランドのクリスマス」おはなし会
13時から、シュトレンとグリューワイン(またはティー)をお出しし、コンサートをします。
おはなし会に合わせて、フィンランドの楽曲を演奏します。
17時から、フィンランド在住でいらした照明デザイナーの梅田かおりさんが、「フィンランドのクリスマス」と題し、フィンランドの暮らしの中のキャンドルや照明について、またその作家たちについて、おはなしくださいます。


♪20日 「日本のクリスマスの歴史と音楽」おはなし会 & ナイトパーティコンサート
13時から、日本にこれほどにクリスマスが受け入れられたのはどのような歴史があったのか、またどのように人々がクリスマスを楽しんできたか、光裕&聡子がおはなしします。

17時からは、ナイトパーティコンサート。ホワイトシチューなどお出しします。
音楽と食事であたたまっていただきたいと思います。


♪21日 あなたの思い出のChristmas Songコンサート
いよいよ最終日です。
みなさまから寄せられたお便りにもとづいた音楽会をします。




このとおり、連日、盛りだくさんな内容で、みなさまをお待ちしております。
また、ギャラリー内では、Happy Toco手芸部のリーダーをつとめてくださっています、佐野さとりさんによる、Happy TocoチャーミングCDシリーズ盤面イラストの原画展も同時開催いたします。
さまざまなどうぞお楽しみにお出かけください♪

2014年4月10日木曜日

あたらしい はじまりに

いよいよ宮城で、桜が咲き始めました。
4月10日の今日は、旧暦で3月11日とのこと。
淡紅色の花びらたちを眺めていると、今年も春が訪れたことをしみじみ感じます。

あの日からも、1日1ニュースを140字にこめてTwitterにて発信することは、何とか今日まで続けることができましたが、日本に起こったこと、今なお起こっていることを考えない日はなく、なかなか多くを言葉にできない日々でした。


そのような私に、みじかい言葉で、たいせつなことを綴る機会が訪れました。
ボランティアで関わった宮城県石巻市で、震災後あらたに統合し開校することになった小学校の校歌の作詞をすることになったのでした。

当初は、石巻で生まれ育ったかたが書かれたほうがよいのでは、と思いました。
と同時に、作曲を引き受けたのは、Happy Tocoピアニスト・榊原光裕でした。
徐々に、私も、いただいたお気持ちに精一杯おこたえしたい、という思いをもつことができました。


まず、在校生やご父兄のかたがたに、歌詞に入れてほしい言葉をお出しいただきました。
すべてに目を通し、できるかぎり思いをくみとりたいと考えました。
ただ、「絆」だとか「希望」といった言葉ではなく、そうしたことがそっと伝わるような言葉を用いたり、具体的な地名一つ一つではなく、もうすこし大きな目で「世界」をとらえるような表現にしたいと考えました。

私がまず校歌に盛り込みたいと考えた内容は、
人間が対峙するには、自然の力は壮大なもので、ときとしてなにもかも奪い去っていくのも自然かもしれないが、恵みをもたらしてくれるのもまた自然である、ということ、
長い長い歴史の中では、人間が生きているのはいっときかもしれないが、いまここに生かされているのはたしかなことで、あなたがいて、私がいるのだ、ということ、
どんな時代にも、音楽があり、想像を絶するような過酷ななかでも、人々は歌い、光を見出してきたのだ、ということなどでした。


そして作詞と作曲を同時にお互いに進めるなかで歌ってみたりしながら、推敲を重ねました。
あたらしい学校は、橋浦小学校、相川小学校、吉浜小学校、という三校が一つになる、という学校でしたので、橋浦小学校の「橋」、相川小学校の「川」そして、吉浜小学校の校歌の一フレーズを入れることにしました。


震災をなまなましくあじわった子供たちがほとんど、という小学校の門出にあたって、「自分たちこそが、さまざまなことを乗り越えて、しっかりと考えて、しっかりと立って、しっかりと生きて、この学校の歴史を作っていくのだ」という自負のようなものを持ってもらいたい、という願いもこめました。


自然災害というのは、人間にとっては災害でも、自然の大きな営みのなかの出来事である、という面もあるかと思います。
人間の誕生や、もっというと山や川の誕生さえも、すべてが自然の営みのなかから出来たことで、そういうことも含めての“自然”であることをあらためて受け入れなければいけない、という思いもありました。

そして、そうした大きな災害でなくとも、人生には、理不尽にかんじることや、思いもよらない悲しいことが多々あるでしょう。
大きな喪失感、無力感などに、負けそうになっても、感情におしつぶされそうになっても、もしも校歌の一フレーズでも思い出してそれがほんのすこしでも気持ちの助けになるようなことがあったら、それ以上の喜びはない、という気持ちで書きました。

よろしければお聴きください。


作曲をした榊原光裕がイメージした、3校が一つになり未来へ広がる象徴としての、3つのパートが同じメロディを追いかけ歌うエコーのような響き、3番までの各最後の5度のハーモニーなど、あじわっていただければ幸いです。

2013年2月8日金曜日

「さかのぼってもいいですか」

先日発表された第148回芥川賞に、作品が選ばれた黒田夏子さんが、受賞後に新聞へ寄せたエッセイのタイトルが、「さかのぼってもいいですか」。

その一節をかいつまんで引用すると―
「受賞すると、受賞第一作というものが期待されるならわしらしいが、ざんねんながら早急には応じがたい老新人のじじょうをいくつか記しておく。
まずは、受賞第一作にあたるものはすでに書かれてしまっている。……それぞれに五、六ねんづつかかった三ぺんから成る作品があって、じじつじょうこれが次作になる。
……もうひとつさかのぼった作品は、一九八四年、四十七さいで書きあげている。しかし七百まいという分量だけからしても無名者の出版交渉がまとまる見こみはなかった。
……ただでさえ一作に十ねんといった今までの歩調ではつぎの完成まで生きているかどうかもあやしくてやくそくのしようもない受賞第一作ではあるが、もしさかのぼっていいのなら七百まいがずっと待っている。」

このウィットにとんだ、75歳の黒田さんのエッセイには、すっかり引きつけられました。
黒田さんのように、一つの道を長い年月にわたって究め続けていらっしゃるかたには、いつも共感をおぼえ、また敬服しますが、とりわけ「生きているうちに見つけてくださいまして、ありがとうございました」という言葉には、ほんとうに地道な努力を積み重ねてこられたかただから発することができる、自負がこめられた重厚な歓喜が感じられ、こちらまで感極まる思いがしました。

前置きが長くなりましたが、じつは1年以上ぶりのBlog再開にあたり、
お伝えしたかったことは一言、「さかのぼってもいいですか」。

Blogを更新しない間、Twitterにて1日1ニュース、日々ほぼ140字で発信することを続けてまいりました。
お読みくださっているお客さまたちから、「もっとそのつづきも知りたいです」と言っていただくことがふえてきました。
ウェブサイトのデザイナーも、「Blogもまた書いてください、Blogのページデザインもマイナーチェンジしておきましたから」と背中を押してくださいました。

黒田さんとはまた違う意味においてですが、さかのぼってよろしいでしょうか。
あいかわらずマイペースで、になりそうですが、すこしずつ、活動を振り返りながら、あらためてお伝えしていきたいと思っております。

2011年8月12日金曜日

あの日から5か月―

長らくごぶさたいたしました。

あの日から、今日で5か月―季節は移ろい、暑い夏となりました。

あれから、事態が大きく動いたことも、あまり動いていないことも、
そして、すこし希望がみえたことも、まったくみえてこないことも……。


「何も終わっていないし、何も始まっていない」……そうつぶやいた
方がいました。

いまだ避難されている方や、さまざま失った方とお話していると、
あらゆる思いを封じ込めて明るい笑顔を見せてくださる方も
おられれば、悲痛を言葉にしてぶつけてくださる方もおられますが、
言葉にさえせずに、あるいはできずに、ひっそりとされている方も
多くおられることを感じます。


生きていく、ということは、そもそもほんとうに大変なことです……が、
この3月に起きたこと、そして原発の問題を含め今なお続いていることに
苦しめられている方々に、どうしたらもっと寄りそえるか、それを
考えない日はありません。
そしてなぜこれほどにも深刻な事態に陥ることになってしまったのか、
それも考えずにはいられません。

ずっと、より大切にすべきことがあったのに、それこそ大きなうねりに
飲みこまれ、小さな声はかき消されてきた―震災対策であれ、原発問題
であれ、調べれば調べるほど、同じことが根本に問題にあったように
感じられます。


一つしいて言うなれば、「こういうことが豊かさというものだ」という
価値観が、日本全体でもうすこし変わってもいいのではないか……
ということ、ひいては、止めるべきものと気づいたものを止めたり、
昔のように戻したりすることも、いまこそ必要な‘前進’なのでは
ないか……ということを感じています。

先日、「発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。
それは、人類をやめろ、というのと同じ」と、いささか乱暴な言説を
表明した作家がいましたが、それはだいぶ破綻した論理で、
これまでもそうであったように、科学により獲得した新たなる技術であれ、
それがよろしくないと判断されたときには、人間の知性や理性によって
放棄されたり、よりよい他の技術に置き換えられたりしていかなければ
ならないのではないでしょうか。
せめてそうでなければ、人間として、あまりにも驕った態度だと思うのです。


人間は、40億年前にこの地球上にあらわれた生命から進化してきている
とのこと。さまざまな生物が、進化し、戦ったり助け合ったり、食べ物を
供給し合い、豊かな自然をすみかとして、40億年もの間、生きてきた―
つまりは、一人の人間が100年生きたとしても、その4000万倍の間、
ずっと続いてきた地球の生命活動が、いま脅かされつつあるという事実……。

生命科学者、柳澤桂子さんによる一首が心に響く、2011年の夏です。

「生きるという 悲しいことを 我はする 草木も虫も 鳥もするなり」





2011年5月6日金曜日

3.11、その日から…

Blogでは、ごぶさたしてしまいました。
あまりのことに、どう綴ってよいのか…という思いで、1日1度Twitterにて短いメッセージをつぶやくのが精一杯でした。

直後からHappy Tocoメンバーを心配くださった国内外のみなさま、ほんとうに感謝申し上げます。
Happy Tocoメンバーは無事でした。が・・・。
書こうとすればきりがないほどで、さまざまな思いもつのりますが、宮城から離れたところにいらっしゃるかたがたにお伝えしたい思いもあり、あの日からのことをすこしばかり言葉にしてみたいと思います。


3月6日の‘Happy Toco春を待つコンサート’を無事終え、そのご報告をしながらBlogの更新をしようと思った矢先のことでした…。
たしかに予兆らしきものはありました…。3月9日、すこし大きな地震があり、ちょうど石巻N's-squareの遠藤さんからも「地震怖い・・・!」とメールが来ていました。

3月11日―その日は、仙台の自宅で、翌日のコンサートの準備にかかっていました。
たちまち大きな音と激しい揺れ。その時間はとても長く、音も揺れもどんどん強くなっていったようにさえ感じました。あたりの物が派手に音をたてて壊れたり崩れたりするなか、瞬時に、いったいどうなるのか、ここがこれほどならば、ほかのところはどうなってしまっているのか、といった思いがよぎりました。

揺れの途中で電気は途絶え、そして携帯電話も全く通じなくなりました。そのときはまだ、その先何日もガソリンが入手できなくなるとは知らずに、迷わず車を走らせ、身近な友人が無事なのか訪ねました。

季節外れの雪が舞いはじめ、まだもうすこし明るいはずの時間なのに、空は不気味なほどに薄暗くなりました。この世に、とんでもない天変地異が起きたのだと直感しました。


そして友人の車の小さな画面ですこしだけ見ることのできた沿岸部の映像に、それは現実のものと知りました。
街ごと流されている・・・。石巻の遠藤さんは、当麻さんは、田沼さんは、友枝さんは、郁子さんは・・・、名取の幕田さんは、小沢さんは、太田さんは、文子さんは・・・、多賀城の岡部さんは、村口さんは、渡部さんは、菅原さんは、小野寺さんは・・・、南三陸の林さんは、西條さんは・・・、塩釜の小幡さんは・・・。そして音楽仲間や、通い慣れたお気に入りのお店は・・・。

知人・友人にかぎらず、どなたの命でも犠牲になることは辛いことですが、大切な友人たちの笑顔がたくさん目に浮かびました。
生きていればいつかまた会える、と動じないほどには強くもなく、連絡がとれない間中、気が気でない日が続きました。

それは、県外の友人たちにとっては仙台の私どものことも同じだったようで、夜中に一瞬だけ電波が入ったとき、何十通ものメールが届いていたことを知ったときには驚きました。そして、ほんとうにありがたく思いました。


地震から2日目、3日目は、5月のような陽気でしたが、かと思うと、それからの数日は、1月の真冬のような天気に逆戻り。春はもうすぐそこに、と思っていたのに、身も心も凍るようでした。

しんしんと降り続く大雪のなか、開く気配もないお店にでも何百人もの行列ができていたり、ロープが張られたガソリンスタンドにさえ車が何百台と並んだり、という日が続きました。
一刻も早く、探しに行きたい、助けに行きたい、といった切実な思いが、焦燥感ともなりました。

それでも、何かを求めて何時間も待っていると、はじめてのかたとでも自然とおしゃべりが始まり、静かに疲弊していた心がすこし慰められたりもしました。お互いの不安を分かち合ったり、生き残った者としてライフラインの止まった生活の工夫を出し合ったり・・・。
お互いに、譲り合ったり、助け合ったり・・・支え合っているということを実感しました。



徐々に情報が入ってくればくるほど、事態の大きさが分かりました。
知人がご遺体で見つかってもご葬儀もできず・・・。津波にのまれていったときのことを語る友人たちの話は、胸が張り裂けそうなものでした。


そうした悲しみが心を占めつつも、物資を届けるために石巻などに通うようになると、すこしずつあることを感じました。まさに「無常」。すべては、とどまることなく常に変移している・・・よいこともそうであるように、悪いことも、ずっと同じ状態は続かない、ということ。

絶望してすべてが止まってしまったように感じるときでも、のちに、じつはすこしずつ変化はしていたのだと気づくときが来る― 生きるために人間にもともと備わっている力のようなものをつよく感じました。


4月に入ると、Happy Tocoの演奏をまた聴きたい、といったお声を、深刻な被災地からもいただくようになりました。こちらが救われる思いでした。
おそらくは、原始から人間は音楽で仲間との団結をつよめたり、心を奮い立たせたりしてきたことでしょうけれど、しかし、いまの状況にあって、押しつけになったり、すこしでも不快にさせるものになったりしてはけっしてならないと考えていただけに、求めるお声をいただいたことは一つの大きなきっかけになりました。

それからは、具体的に一つ一つ目標をもって動き出しました。ちょうど、ガソリンなどもすこしずつ入手しやすくなっていました。高速バスの席もとれるようになってきていました。被災地に演奏を届けるだけでなく、楽器を贈ることもできないか― 楽器生産の世界的中心地の一つである浜松にも打ち合わせに行きました。


そのつづきは、つぎのBlogでお伝えしたいと思います。


いまなお、家族が見つからない知人、体育館での生活がいつまで続くか分からない友人、水や電気が止まったままのなかで暮らしている友人がいます。

そして、地震と津波という天災にくわえて、原発の制御不能という人災まで起こり、あるまじき事態が続いています。福島のかたがたは、どれほどの理不尽さに耐えておられることか・・・。

仙台でさえ外出を控えるように通達されたとき、まだまだ緊急支援が必要なときでした。引き裂かれる思いをしたかたがた、そこで命を落とされたかたがたを思うと、天災にたいしてはいだかない感情がわいてきます。天災にはあらがえないという諦めをもつことができますが、人災はとうてい・・・。

かねてから、これほどに‘豊かさ’の意味するところが、それぞれに違うものなのだろうかと嘆きたくなるほどに、日本のさまざまに疑問をもっていた私としては、自然さえをも‘想定’しえると驕った人々が、優先すべきことを誤って引き起こした、恐ろしい人災だと思っています。もはや生き地獄だ、とつぶやいた友人の言葉は、実感だと思いました。
私たちの命をはぐくむ、土、水、風・・・そうしたものが、人災によって汚されていく、その事の大きさについて、もっと多くのかたたちと話し合い、進むべき道をともに考えたい、そう思う日々です。